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桂馬の跳ねる音が聞こえる

[2025.04.16]

ぼくは自分の父親に将棋で勝ったことがない。正確に言えば、勝とうとしたこともほとんどない。父との将棋では、いつも盤上には静かな風が吹いていて、こちらが何か駒を動かすたびに、まるでその風に押し戻されるような感覚があった。

だから、自分が父親になって、そして息子と将棋を指すようになったとき、奇妙な感情が湧き上がった。ほんの数手先までしか見えなかった昔の自分が、そこに座っているような気がしたのだ。もちろん、息子はそんな感傷に目もくれず、淡々と僕を負かしにくる。

息子の春休み、ぼくは息子に将棋で三連敗を喫した。別にそれが世界の終わりというわけじゃないけれど、どこか背中の真ん中あたりに小さな違和感がずっと残っていた。それはたぶん、自分がもう少し強くあれたかもしれない、というほのかな悔しさのようなものだと思う。彼の勝ち誇った笑顔は、どこか昔の父のそれに似ていた。

1週間前、ぼくはふと息子に買ってあげた「こども将棋」という本を開いてみた。寝る前の束の間の読書のつもりだったのに、自分の中に静かに火が灯ったような感覚があった。そこには、ぼくが今までうまく扱えなかった駒──そう、桂馬について、まるで小説の中の登場人物のように語られていた。ぼくは試してみた。桂馬を左に、右に、前線に配置しながら、相手の陣を撹乱した。するとどうだろう。攻めが、いつになく活性化した。

同時に、今まで軽んじていた金と銀の堅実な守備力に目を向けた。守りというのは、単なる待機ではない。静かにそこにある秩序だった。ぼくは彼らに、新しい敬意を抱いた。すると、自分の王の位置がくっきりと見えてきた。王は逃げてばかりじゃいけない。時に動き、時に耐える。

それから6連勝した。驚くほど、自然な流れだった。

息子は今、少しふてくされている。

でも彼もまた、何かを学びとるだろう。ぼくがそうだったように。

将棋盤の向こう側には、いつも、何かが待っている。

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