桜の木の下で、ふたたび雨が降るまで
朝から雨だった。
そんな日は、世界が少し静かになる。車の音も、鳥の声も、どこか遠くで響いているような気がする。外に出たとき、空気に溶け込んでしまいそうなほど、ぼんやりとした空だった。
今日が晴れだったらいいのにと、昨日から思っていた。小学校入学を控えた次女のランドセル姿を、桜の木の下で撮りたかった。そんな願いを込めてなのだろう、昨日の夜に妻は一眼レフカメラのバッテリーを充電していた。朝の空はずっと黙っていたが、いつのまにか昼近くに外に出ると、光のようなものが差し込んでいた。
ほんの数時間だった。けれど、その「一時的」は、僕の記憶に刻まれるには十分な時間だった。
午前診療を終えて(水曜日は午前中で診療は終了なので)、慌てて準備して、僕は医師会館に書類を持っていき、妻が学童にこどもを迎えにいき、春休みなのにわざわざランドセルを背負って近所の潤井川まで5人でてくてく歩いていく。雨が止んだばかりの道は少しだけ匂いを変えて、草と土の混じった春の香りを放っていた。子どもたちはランドセルを背負って、小さな背中をゆっくりと揺らしながら歩く。
新しい世界へ踏み出すことに、まだ気づいていないようにも見えるし、もう覚悟しているようにも見える。その曖昧さが、あまりにも人間らしくて、胸がきゅっとした。
潤井川の桜は、まだ花びらを落とすには早い時期で、まるでこの日のために咲いてくれていたかのようだった。妻がカメラを構えて子どもたちの撮影をする風景全体を撮りながら、ふと思う。何かを「残したい」と願う気持ちは、過去をすくい上げようとする行為なのか、それとも未来に何かを託す行為なのか。
シャッターの音が、川のせせらぎに溶けていく。笑っている子どもの顔に、ふと風が吹いて、桜の花びらが舞った。舞った花びらをキャッチしようと子どもたちは踊った。
帰り道、また雨が降ってきた。今度は、少しだけ強く。暗く静かな世界が戻ってきたようだった。
それでも、不思議と足取りは軽かった。
一時的な晴れ間がくれたものは、ただの写真以上のものだった。