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白球の軌跡を追って、アールグレイを飲み干し、空きボトルを手にした清水のナイトゲーム

[2025.09.28]

昨日の夜、予定はひとつ空白になった。妻の飲み会が突然なくなったからだ。妻のいない時間をどうやってマネジメントして、こどもをなんとか21時くらいまでには寝かしつけようかと数日前からいくつかのアイディア出しをしていたが、それを考える必要も同時に消えた。ぽっかりとあいた時間に風が吹きこむようにして、僕ら家族は「くふうはやてベンチャーズ静岡」のナイトゲームへ出かけた。清水にホーム球場がある。二部リーグの野球には、どこか土の匂いと湿った照明の光が混ざり合う感じがある。

スタンドの席に腰を下ろし、キャップをひねってアールグレイティーのペットボトルを開ける。炭酸ではなく、紅茶のほのかな香りが喉をすべっていく。その平凡な感覚が、なぜか妙に落ち着かせてくれる。

村上春樹が、かつて神宮球場の外野席でビールを飲みながらのんびりヤクルト対広島戦を観戦していて突然「自分にも小説が書けるかもしれない」と思った話を思い出す。1978年の春、ヤクルトの助っ人外国人選手デーブ・ヒルトンが二塁打を放ち、白球がフェンスに転がった瞬間に、そのひらめきが走ったんだったっけ。特別な予兆もなく、ただ電撃のように。村上春樹はその日の夜に原稿用紙を買い、万年筆を手に取り、あの『風の歌を聴け』を書き始めた。物語はそこから始まった。

その記憶をなぞるように、僕もアールグレイをひと口飲み、球場の白球を追いかけてみる。しかし僕の中には何も走らない。電撃の代わりに通り抜けていくのは、涼しい秋風とほのかな紅茶の香りだけだった。

五回が終わるころ、藤枝明誠高校のチアリーディングがグラウンドに飛び出す。音楽が鳴り響き、彼女たちが放つリズムと笑顔に、観客席全体がゆるやかに酔わされていく。拍手を送りながら、僕は自然にその波に身をゆだねた。

試合はやがて終わり、ひとりの選手の引退セレモニーが始まった。彼の言葉は簡潔で、控えめで、しかし誠実だった。照明に照らされながら涙ぐむ姿を見て、胸の奥に小さな波紋が広がった。電撃ではない。もっと静かでやわらかい揺らぎ。

そのとき、ふと気づく。グラウンドで踊る高校生も、引退を迎える選手も、もう僕より年下だ。そんなに年をとったつもりはないのに、いつの間にか彼らを見送る側になっていた。思えば自分にも高校時代があり、いくつもの「引退」の場面を越えてきた。その記憶は、拍手の音や照明のまぶしさといっしょに、曖昧に残っている。

結局、帰り道で僕が手にしていたのは小説の種ではなく、アールグレイティーの空きボトルとひとつの夜の記憶だった。それで十分だ。

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