記憶と講演の交差点
9年前に浜松に招いてくれた小川先生が3月に大学を退官される。
その事実は、単なる日付の積み重ねの結果であり、時間の流れの当然の帰結とも言える。けれど、それを「知る」ことと「実感する」ことの間には、妙なズレがある。今日は富士市でリウマチの講演会が開かれた。講師は、小川先生。「行かない理由」はない。むしろ、「行かない」という選択肢があることすら、想像の外だった。
仕事を終え、2分前に会場に着き、講演会直前の小川先生に図々しくご挨拶をする。手土産を渡しながら、「お世話になりました」と言葉を発する。いつも通り先生は「おー、先生元気そうですね」と返す。このやりとりが、あまりにも日常的で、それでいて非日常的でもある。
講演が始まる。その瞬間、時間の感覚が妙に歪む。スライドの構成、話の運び、言葉の間合い、すべてが懐かしい。「懐かしい」というのは、過去の記憶がただ蘇るだけでなく、現在の自分と過去の時間が奇妙に交差する現象でもある。
数年前、この声をもっと頻繁に聞いていた。診察室で聞いたこと。カンファレンスでのやりとり。ふとした雑談。
懐かしい。
懐かしいと感じるのは、過去が遠ざかるからではなく、今この瞬間に、過去と現在が重なるからだ。当時の自分がここにいて、今の自分もここにいる。そして先生の声は、どちらの自分にも届いている。
講演が終わり、ご挨拶する。もしかしたら、今後こうして直接お会いする機会はだんだん減っていくかもしれない。けれど、言葉や考え方は、自分の中に確実に残っている。それが「学ぶ」ということの一部なのかもしれない。
「3月で退官です」と言われても、先生の話し方も、考え方も、何も変わっていなかった。それは、形だけが変わる儀式のようなものなのかもしれない。小川先生の考え方や言葉は、講演の場でも、その後の会話の中でも、当時のままだった。
富士市までありがとうございました。
お疲れ様でした。