たとえば、そんな音があったかもしれない
クリニックの待合室にある自動販売機は、たいてい黙っている。
でも、ときどき、誰かの指先に反応して、短く「ガコン」と音を立てる。
静かな待合室に響くその音は、何かが終わる音にも聞こえるし、何かが始まる音にも聞こえる。
飲みものが落ちてくるだけの音。でも、それはたぶん、その日その人が選んだ、ちいさな行為の証のようなものでもある。
ペットボトルを手に取るとき、その先のことまで想像する人はあまりいないかもしれない。
ただそれだけの行為。喉を潤すための、ごくありふれた仕草。
でも、そのあとに静かに生まれていた何かを、僕たちはきっと、見過ごしてきたのかもしれない。
それでも、自動販売機はその一本ごとに、ほんのすこしずつ、どこか遠くの景色に色を足していた。
さっき届いた「日本財団子どもサポート基金」からの手紙にその景色が広がっていた。
2025年度、「ガコン」が1588回鳴って、15880円分の「まだ見ぬ誰かのための時間」に変わった。
昨年度は、あそびのむしセットという名前のおもちゃで無邪気に笑った子ども。
そして今年度は、ZEN大学という新しい学びのかたちを通して、画面越しに世界とつながろうとした若者。
そのすべてが、自販機の前で選ばれた一瞬から始まっていたかもしれない。
何気なく押されたボタンが、見知らぬ誰かの背中をそっと押していたとしたら、それはなんだか、すてきだ。
人が人のために何かをするというのは、大げさなものではなくて、たぶん、そういう偶然のような仕草のなかに潜んでいる。
それは名前も知らない誰かに向けた小さな「ひと手間」であり、たまたまの「やさしい揺れ」のようなもので。
そう思えるのは、きっと、あの「ガコン」という音が、どこかの誰かに、まだ届いていない何かを、そっと運んでいたからかもしれない。
あの日あの時、のばなクリニックの自販機の前で飲みものを選んでくださったみなさまへ。
その「ガコン」と鳴らしてくれたその音が、少しずつ少しずつ、温度を持ってちゃんと届いていたことを、僕はそっと伝えたいのです。
ほんとうに、ありがとうございました。