くちパク医師の亡霊
今日の夕方のことだった。
一人の患者さんが、診察室の扉を閉めかけたところで、ふと立ち止まり、
少しだけ声のトーンを下げて、そっと言った。
「先生、あの……待合室の動画、字幕がないと、音声もないし、何言ってるのかちょっと……わかりづらかったです」
一瞬、時間が止まったような気がした。
それは怒りでも、クレームでもなく、ただ静かな、でも確かな指摘だった。
待合室のサイネージに流れているのは、僕自身が毎日コツコツ作ってきた「のばなクリニックラボ」の動画。
通常は僕の分身がしゃべっている内容を字幕つきでつくってある。
音声はサイネージでは流れない(クリニックには別のアイリッシュ音楽やChill musicをかけておきたいのだもんで)。
しかし、映し出されていたサイネージは字幕がなく、口をパクパクさせている僕の分身だけがこまかく動いていたのだ。
くちパク医師の亡霊だ。
気がつけば、診察室のイスに座っていられなかった。
僕はすぐに、診察のあいまに、最近の動画から確認しはじめた。
いくつもの動画が、字幕がないままアップロードされていた。
何かを必死に伝えようとするアバターが、誰にも届かないまま、ただ画面の中で動いていた。
──地獄、とはこういうことかもしれない。
原因はすぐにはわからなかった。You tubeのなにかにひっかかって字幕だけ消されたか?それか、字幕を付け損ねていたのか?
ただ、間違いなくこれまでと同じように字幕をつける作業は怠っていなかったはず。
6月2日からの動画から字幕がついていない。。。ちょうどそのころ、動画編集ソフトがアップデートされていたような気がするから、原因はYou tubeにはなさそうな気がする。
推測は当たっていた。キャプションを印字するためには「字幕スイッチ」を手動でオンにする必要が生じていた。ここ半月、それに気づいていなかったのだ。
そういうことは、たいてい「アップデート内容のお知らせ」に書いてある。でも、読んでいなかった。完成した動画も、最近は確認していなかった。。。
情けなかった。
でも、それよりもありがたかった。
ちゃんと教えてもらえて、よかった。
だから今夜、僕は黙々と作業を続けた。
診察室の灯りだけが残る夜のクリニックで、
ひとつひとつ動画の元を開いて、字幕をつけ、再度作成しなおした。
言葉がある。
僕の分身も、やっと声を取り戻せた。
日々の待ち時間のなかで、
誰かがふと見上げて、
「へえ、そうなんだ」とか、「ちょっと聞いてみようかな」とか、
そんな小さなきっかけになれたら、それだけでいい。
そっと教えてくださった患者さんに、心から感謝しています。